2017年4月5日

NO MUSICでもNO LIFEなわけではない。
MUSICなどなくても生きてゆける。
LIFEがなければMUSICもあり得ないので、
NO LIFE~NO MUSICというのが俺の中での順位だ。

音楽が社会的な「現象」になるのは自然なことだと思うけれども、
社会現象としての音楽に興味がない。
俺にとっての音楽は現象ではなく、生きてゆく「糧」のようなもので、
それは「生業」という意味合いでもあるし、「生き方」という意味合いでも、ある。
そういった意味においてはやっぱり、NO MUSIC~NO LIFEと言えるのかもしれない。
いずれにせよ、「社会的」な「現象」なんぞに用はない。
用があるのは社会ではなく「個人」だ。
お前は誰なんだ?
そこだけに用がある。

なにがどうでも、どうにでもなりやがれ、と思ってはいるが、
ここんとこばかりは、どうしたって譲れるものではない。

エレキギターに鉄の糸が6本張ってある。
電気仕掛けのアンプ装置につないで、鉄の糸を思い切りぶっ叩くと、
バリーン!と悲鳴のような音が出る。
指でそっと触れると、すすり泣きのような音も出る。
クスクス笑ったり、ため息をついたりも、する。
それから、声。

心の底の得体の知れない「感情」という名の無形物の具象化。
それが俺にとっての音楽だ。
人間の数だけある、得体の知れない「感情」の発露。
それが聴きたい。
生身であればあるほど、よい。
得体の知れないほど、よい。

俺にとってそれは、
例えば、地獄に下ろされた一本の「蜘蛛の糸」だ。
子供の頃から、そんな風にして音楽と付き合ってきた。
それは決して「嗜む」ものなんかじゃなかった。

まあ、どうでもよい。
なにがどうでも、どうにでもなりやがれ。
俺は俺として生きてゆく。
そしていつの日にか死ぬけれども、
生きている限り、歌はある。
しっかりしろ。
もっと真っ直ぐ、人生を棒に振れ。
と、自らを鼓舞して生きている。